宮本武蔵


宮本武蔵

天下無双の剣豪 「人を生かす剣…必ずあるはずなんだ…!」
icon_28.jpg 無頼の剣士。二刀を用いる二天一流の祖。
向こう気が強く、自ら「無双」を名乗る。
言葉数は少ないが迫力のある若者で、
剣に「人斬り」以外の可能性を見出すべく
ただ道を求め、いつか極意を掴むために剣を振るう。
CV:金子 英彦

  修得Lv 戦技名 効果
戦技 1 畏怖 30秒間、敵全軍の能力が減少する
20 地流 30秒間、属性攻撃が強化される
40 乱舞 30秒間、コンボ数の増加量が大幅に上昇する
60 鉄壁 15秒間、攻撃によるダメージを受けない
80 無双 30秒間、敵のガードを無効、攻撃ヒット時
よろけさせ、属性攻撃強化

武器 レアリティ 名称 入手方法
武器 双刀 初期武器
★★ 無念無想 双刀を進化
★★★ 天地円明刀 無念無想を進化
レア武器1 ★★★★ 磐裂根裂剣 柳川の戦いで「剣を振るう理由」達成
レア武器2 ★★★★★ 甕速桶速剣 磐裂根裂剣を入手後、
練武館で20000ポイントと交換

  秘奥義 極意
固有属性 紅蓮 閃光


その他

全体的にリーチが長く攻撃速度が速めなため、タイマンや白ゾーンではかなり強く、奥義も強力。
しかし豪快なモーションに反して攻撃力が低めで、敵が強くなるほど火力のなさと反撃の危険に苦しみ、
高難易度や高士気ゾーンでは奥義の瞬発力に頼らざるを得なくなる。
火力の貧弱さは、極意の固有属性やレア武器添付である閃光の空中コンボ補正で更に悪化するため、
瀕死を維持して技能背水で火力を底上げしつつ、特殊や各種攻撃での無双ゲージ確保を意識しよう。
武蔵をメインにしたい場合は自作武器の使用を強く推奨する。


まず装備アイテムでは能力:攻撃に特化し、各種攻撃が敵の防御を少しでも貫通するよう後押し。
武器の技能は勇猛+神撃に加え、破天か鋒矢あたりを、属性は修羅に加え、凍牙が手堅いが烈空もアリ。

攻撃は無双か通常攻撃連打、または通常攻撃4発後のチャージ攻撃2段目→特殊キャンセルがオススメ。
特殊は攻撃判定もあるため、無双ゲージを至急確保したい場合は敵雑兵の群れへ連打すると良い。
敵の表示数が少ない旧3DSでは、まめにチャージ攻撃キャンセルで特殊を出そう。

完成すれば火力も期待でき、武蔵の台詞「無双の剣」「剣じゃ無敗」に(笑)がつかなくなるだろう。

                   ※  ※  ※

武蔵と言えば二刀流、ということで、武器の名も2つのモノ・事象等からきている。

★★武器の無念無想は、立川のパンチが至った同名の境地のこと。
武蔵が求めた空の境地は、仏教でいう悟りの境地に極めて近かったことからきていると思われる。

★★★武器の天地円明は、武蔵が語った天地に対する考え方と、武蔵が揮った円明流からきている。
天地については、武蔵は剣をふるう心構えとして無の境地に至れ(意訳)、という持論を展開しているが、
武蔵はこれを説明する際、世の全てを天地と表現し、天地の外に住めなど、「天地」という言葉を多く用いた
逸話からきていると思われる。
円明流は、二天一流の前に武蔵が名乗った流派で、武蔵の養父が創始した当理流を発展させたもの。
剣に限らずあらゆる武器術を含んだ総合武器術となっている、というより当時の剣豪たちは多くの武器術も
流派に取り入れているが、武蔵は最終的に二刀で全てをまかなう二天一流に行き着いたようだ。

レア武器の磐裂根裂剣は、日本神話の石折神・イハサクノカミ、根折神・ネサクノカミからきている。
イハサク・ネサクは雑賀孫市の経緯の通り、イザナミがホノカグツチを産んだあと、産褥の傷が癒えず
亡くなった際に、最愛の妻を亡くしたことにキレたイザナギがホノカグツチを斬った際、その血のついた岩から
産まれたとされており、更に「岩根をも切り裂く威力の象徴」という設定がイハサク・ネサクにつけられた。

第二レア武器の甕速桶速剣は、日本神話の甕速日神・ミカハヤヒノカミ、桶速日神・ヒハヤヒノカミからきている。
両神もイザナギがホノカグツチを斬った血から産まれたとされている。

これらの神はその由来から刀剣の神として扱われることもあり、剣に生きた武蔵に因んだものと思われ、
また後の創作で武蔵が吉岡一門と三度目の決闘をした際、総大将の輿にされた11歳の少年・壬生源次郎の首を
はねた話とイザナギが幼きホノカグツチを斬った話にも因んでいるのかも知れない。

なおホノカグツチ斬りによる神産み伝説は、神話性がより高い「古事記」にしか書かれておらず、またホノカグツチ
の返り血から産まれた神の中に実在したと思しき人物・タケミカヅチがいることから、これらの神は元は物ではなく、
返り血を浴びたイザナギの側近であった可能性も考えられる。



名は玄信。江戸時代初期の剣豪で二天一流の開祖。剣客と決闘を繰り返しつつ関ヶ原の戦い、京の吉岡一門など
数々の戦いに生き残り、巌流島では小次郎に勝利した。のちに島原の乱でも戦っている。
自身の兵法の集大成とも言える五輪書を書き、水墨画など芸術関連でも多才さを見せた。


武蔵の出自は諸説あるが、どうも播磨(兵庫)赤松家の子孫説が有力なようだ。
赤松家が編纂した新免家の家系の記録でも武蔵と養子・伊織は共に赤松家出身であると記しており、
別の記録でも武蔵の養父となった新免無二之助は赤松家の流れをくむとされている。
武蔵と新免無二が元々遠い親戚なら武蔵や伊織が二代続けて養子に入っても何の不思議もないだろう。
また武蔵の実家と新免無二の家は国境を挟んでかなり近かったことも付け加えておく。

更に誕生年についても諸説がある。
一般に言われる天正12年生まれの説は武蔵が書いた五輪書の序文から逆算したものだが、困ったことに
この五輪書は原本が未だ発見されておらず、現存するのは写本のみ。
その序文には武蔵が書いたにしてはおかしい点がいくつかあり、信憑性が今ひとつ。
しかも武蔵の生母の墓碑に天正元年没と残されていたため、序文か生母のどちらかが間違っていることが
ほぼ確定してしまった。

武蔵が後年、赤松家の祖である藤原氏系の姓を名乗ったり、武蔵の養子・伊織が赤松家の子孫なことからも
武蔵が赤松家出身である可能性は高いと思われ、生母が正しければ武蔵は天正元年以前に生まれたことになり、
一般に知られる武蔵の歴史は最低でも11歳増しになる。


赤松家は黒田官兵衛の家臣筋だったが、織田の下についた官兵衛が幽閉された時期に織田と対立していた
毛利方へ鞍替えしてしまった。
当時中国地方では「反復限りなし」と評する言葉通り、情勢を見ては勢力鞍替えを繰り返すのが常識とされ、
これに業を煮やした秀吉は上月城を陥落させた際、城内の敵兵から女子供まで見せしめで全員打ち首にする。
これにビビッた赤松家は田原へ改姓、次男の武蔵を保険として親戚の新免家に出し、血の存続をはかったようだ。
新免家も自身の家のある村の名をとって宮本姓を名乗ったため、これが武蔵の宮本姓につながるのだが
分かりやすさを重視して本ページでは赤松家、新免家で統一させて頂いている。

武蔵の養父となった新免無二は円明流などの武術の達人であり、揺れ動く情勢の中でも武蔵が体ひとつで生き抜ける
ようにという赤松家の願いもあっただろう。恐らくはこれが武蔵の根幹を成す「無頼」の原点と思われる。


武蔵は自然体かつ中立性を重視し、常に相手に合わせて柔軟に弱点をつく事が、戦いでは最も有効と考えたようだ。

この自然体は自画像にも垣間見えるが、先に構えれば隙に繋がるとして構えず、情は隙に繋がるとして
女性を遠ざけ、反応速度が落ちて(ryという理由で酒を飲もうとしなかった。
本作では「女が苦手だから」という解釈がされているが、他では下戸だから酒が飲めないだとか
ナニが小さくて笑われたからとかいう解釈もあり、本作の武蔵像はマシな方と言わざるを得ない。

武蔵はどんな武器・手段を用いてでも斬り、勝てばよかろうなのだァとしながら、勝とうとする欲すら隙を作るとした。
「空」の境地は本人も表現しきれないようだが、その理念はこれまであげて来た武蔵の「我」を捨てる考え方の
究極点であるのは間違いなく、仏教でいう悟りの境地と極めて似通った状態と思われる。
相手からすれば息を吐くように(相手の中の禁じ手含め)何をしてくるか分からない、というのは大変な脅威だろう。

武蔵は戦略より戦術を重視しており、より多くの味方をもって敵にあたり、戦う前に戦略的に勝とうとする
柳生宗矩とは真逆の発想と言える。
武蔵の求めた武術の道は、数々の決闘をはじめ自身の生き様となった。


ともかく新免家の養子となった武蔵は養父・無二から武術を叩き込まれた。
幸い武蔵には武術の才能があり、わずか13歳にして新当流の有馬一族の一人に仕合で勝利するほどであった。
有馬一族は当時新当流で名を馳せ、家康の武術指南役を務める程であり、武蔵はその新当流の皆伝持ちに
勝ったのだからその凄まじさが窺える。

またある記録では武蔵が内職をしていた養父を子馬鹿にしたため、キレた養父が武蔵に小刀や小柄を次々に投げつけ
更に殴りかかった。が、武蔵はヘラヘラしながらすべてかわし、実家に一時逃げてほとぼりを冷ましたという。
小柄とはペーパーナイフに近い小道具なことから、恐らくは養父も殺す気はなかっただろうが、
養父は武術の達人であり、仮に狙いは甘くとも動作自体は無駄がなかったハズだ。
それをかわすのは尋常な才能ではないだろう。


時は流れ、関ヶ原の戦いが始まるが、新免家の多くは宇喜多家の家臣であったため、武蔵も宇喜多隊に所属した。
一般に武蔵の関ヶ原参戦は17歳とされているが、先の生年が最低11年早まる説を取れば武蔵は30歳前後になる。
宇喜多隊は実質西軍の先鋒かつ主力であり、勇猛で知られる井伊直政、福島正則ら東軍の先鋒などとぶつかり、
小早川秀秋を一時日和らせた程の戦いぶりを見せたが、家康の促しで秀秋は裏切り、壊走へ追い込まれた。

武蔵は撤退戦を辛くもしのぎきり、武蔵は新免一族と共に黒田家の庇護を受けた。
言うまでもなく黒田家は東軍だが、先に書いたように新免家や赤松家は黒田家の傘下にいた経歴がある。
新免家は主家に従っただけ、といった苦しい言い逃れで旧主・黒田家を頼ったものと思われる。
また黒田家としても関ヶ原の軍功で隣接する小早川領をもらいうけて所領が3倍になっており、
少しでも見知った家臣を増やしたかった事情もあっただろう。

だが養父ですら100石の捨て扶持しかもらえず、武蔵に至っては役なしだったため、武蔵は口減らしで
武者修行の旅に出た。これが以後20年にわたる武蔵の決闘の日々の始まりとなった。


武蔵は無敗の剣豪として有名だが、記録によって内容の振れ幅が非常に大きいことでも有名だ。

大抵の記録は、敵軍の規模が数倍違ったり脚色が大きく入る程度で、出来事や勝敗の結果自体はそうそう変わらない。
たとえば現代でいうと「強行採決で非難轟々」という脚色記事はあっても「採決の結果」自体は変わってない。
だから調べれば、最初大した審議もせず採決しようとした記録、指摘されて審議が100時間前後設けられた記録、
一方が論破され続けて審議欠席で敵前逃亡した挙句、採決では全会一致という記録まで出てきて
全体像が見えてくる訳だが、武蔵の記録は過程や勝ち負けすら大きく異なるものが多い。

特に養子・伊織の残した武蔵の記録は、武蔵神格化のためかフィクション色が濃くなっている。
養子・伊織が武蔵の出自を寺などでも度々記載した※3にも関わらず、作州(岡山)宮本村出身説が信じられたのは、
どうも先の碑文などで散々武蔵伝説を誇張をしたこと大きいように思われる。


関ヶ原から4年後、武蔵は京の吉岡一門※1と三度の決闘をするが、この戦いでは、戦いの規模が拡大しすぎて
最終的に武蔵が逃げるハメになった記録が多い。
二天一流の師範ですら、三度目の決闘で敵が数百名に及んだため、武蔵は戦わずに逃げたと書いていることから
最初の決闘で武蔵が勝利ないし優勢な結果で終わったことで、相手のメンツに傷をつけてムキになった吉岡一門が
数を頼みにしたため、武蔵一党が付き合いきれなくなったものと思われる。

更に8年後、小次郎との決闘に関しては、わかりやすいぐらい内容が割れている。
養子の伊織や二天一流の師範らは、小次郎の待つ巌流島に武蔵が1人で向かって勝利したと書いているが、
それ以外の記録では武蔵だけでなく弟子達が表立って、または陰で同行していており
武蔵が小次郎に勝利したあと、小次郎を弟子たち数人で殺したという。
いずれにせよ小次郎の一門を激怒させ、武蔵は逃げざるを得なくなった。

武蔵は老いてから吉岡一門との戦いは頻繁に語ったが、小次郎との決闘はほとんど触れず、言葉を濁した
と言われている。
巌流島での決闘のあと、武蔵は積極的に決闘を挑まなくなったことから、小次郎との戦いが武蔵にとって
苦い思い出となり、黒歴史になったのは間違いないようだ。
※巌流島の決闘については佐々木小次郎を参照。


このように武蔵は個々の戦闘では勝利しても、戦略的には負けた例が見られる。
先の小次郎との決闘も、元は巌流の道場があった地域に二天一流の道場を建てようとしたのが発端とも言われ、
決闘の目的が「道場同士のなわばり争い」なら、武蔵は戦闘には勝ったが戦略的には負けたことになる。
また武蔵は晩年近く、養子の伊織が小笠原家の重臣になっていた絡みで島原の乱に小笠原家の一族の
後見役として参加したが、敵の投石を受けて負傷し、特に活躍することはなかったようだ。
先の11歳年上説が事実なら武蔵は当時70歳を超えていた事になり、当然と言えば当然だが。

この辺りは宗矩寄りの逸話で、武蔵が宗矩に仕合を挑んだ際「たとえお前が俺に勝てても俺の弟子がお前を殺す
だろう。そういう事が分からないうちは相手にできない」と言われ、仕合を拒否された件にも見られる。
この逸話が事実でなくとも、逸話の著者が当時「武蔵は戦略的な勝敗を度外視している」と見ており、
当時そういう武蔵像の元になる資料があったことは事実と思われる。


武蔵は二天一流寄りの記録では将軍家剣術指南役に推挙されるも宗矩に阻まれたという話もあるが、
事実関係はともかく自身の中立・無頼性から、武蔵は高い名声を得、諸大名と多くの交流をもちながら
仕官しようとしなかった。
諸大名も武蔵の名声が大きすぎて与える役の落としどころがなかったのかも知れない。

武蔵は養子に自分のお墨付きを与えて本多家や小笠原家へ仕官させて後見役として食いつなぎつつ
最終的には細川家で捨て扶持をもらい、客分として隠棲している。

隠棲後、武蔵は水墨画などの芸術方面で高い評価を得ており、藤原兼重ゆずりの刀打ちの技術も成熟し、
のちに五輪書と呼ばれる兵法書等を残した。
多くの記録に大きなブレがあるとはいえ、五輪書ひとつ取っても武蔵が優れた兵法家として大成し、
評価されたのは間違いない。
本作の独自イベントを見ても分かるように、誰でも自分より優れた物を創造することはできないからだ。


武蔵は亡くなる直前、独行道と呼ばれる言葉を遺しており、自身の人生の回顧録のような内容となっている。

一、世々の道を背く事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろず(万)に依枯の心なし
一、身を浅く思(い)世を深く思ふ
一、一生の間よくしん思わず
一、我事において後悔をせず
一、善惡に他をねたむ心なし
一、いづれの道にも別れを悲しまず
一、自他共に恨みかこつ心なし
一、恋慕の道思ひよる心なし
一、物事に好き好む事なし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食を好まず
一、末々代物なる古き道具を所持せず
一、我が身に至り物いみする事なし
一、兵具は格別よの道具嗜まず
一、道においては死を厭わず思ふ
一、老身に財寳所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し仏神を頼まず
一、身を捨てても名利は捨てず
一、常に兵法の道を離れず

武蔵は現代では、柳生宗矩と共に日本の剣術の基礎を築いた二大巨峰として顕彰されている。
言わば「戦術の極限・武蔵」と「戦略の極限・宗矩」どちらもバランスよく見習え、ということなのだろう。
多分。


※1 吉岡「剣豪将軍・義輝はワシが育てた」

武蔵との決闘当時、吉岡家は染物屋として栄えていた。
吉岡の染物は憲法染めといって布を堅く染め上げる技術を売りにしており、戦装束のハードコーティングに
適していたからだ。

元々吉岡家は室町時代後期に代々足利将軍家の剣術師範を務め、「室町兵法所」と言われる程の名門だった。
だが室町幕府が倒れてから30年も過ぎ、最盛期ほどの技術は維持できていなかったものと思われる。
最後の足利将軍・義昭が追放されて以来、京は戦の最前線から遠ざかっていたこともあり、吉岡家は武術より
染物の技術を前面に押し出して生き残りをはかったのだろう。

そこへやってきたのが武蔵である。
吉岡一門は秘伝を一子相伝にしていたこともあり、後継を失った吉岡家は武術の一門としての命脈を途絶えさせて
しまうのだった※2


※2 斬って斬って認められたいのだ!

このように書くと武蔵が売名狙いで衰えた古豪一門を滅ぼしたように思われるかも知れないが、
当時の武芸者はみな「武を芸にする」名の通り、仕官のために少しでも武のパフォーマンスを行い、
自分を売ろうと必死だった。

なんせ西軍大名の処分により全国で数十万人もの武士がリストラされてしまったのだから、再就職の椅子取り
ゲームがいかに熾烈かは言うまでもない。
その激しさ、奇抜さは礼儀正しい者ですら例外ではなく、後に当時の話を請われ苦笑いでごまかす程であった
無双シリーズでたとえるなら勝家がダンスステージをやる程、と言えば分かりやすいだろうか。

武蔵は某漫画において欲にまみれたキャラに描かれているが、弟子に義経のようだとおだてられた直後に花押
つまりサインで「オッスオラ円明流天下一、藤原義経!(意訳)」などと書いてしまうあたり、当たらずとも
遠からずといったところか。
むしろ武蔵の真価は目的のためなら、どこまでも自分を抑制できるところにあるのかも知れない。

余談ながら吉岡一門との戦いから3年後、武蔵は宝蔵院一門を相手に短い木刀で戦い、二度勝利したが
宝蔵院一門は寛大に武蔵の腕を称え、夜明けまで飲み談笑したいう。
決闘日時の記録が事実なら宝蔵院胤栄は没しており、子の胤瞬は10歳程度であったから、本気で面子をかけた
勝負ではなかったのだろう。
向かいに座った奴といつ決闘が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気が多い武蔵の
記録においてこんなこともあるのだ。


※3 檀家名簿は住民票の先駆け

当時の日本人はほとんどが神道・仏教の信者であり、寺社の檀家の名簿は事実上の住民票のように扱われていた。
写真など厳しい身分証明チェックもない当時はなりすましもやり放題であったが、後ろ暗い経歴がない者ほど
虚偽を書いて困るのは本人なことからそれなりの信憑性があるとされている。
武蔵は負けた西軍に属していたが、関ヶ原後の落ち武者狩りは徳川家の下に世が落ち着く前のことであったから
関ヶ原以前から徳川家に目をつけられていない限り、捜索の手はそこまで厳しくなかったようだ。




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  • 最終更新:2019-03-05 18:07:15

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