徳川家康


徳川家康

天下泰平の祖 「時に恩も情けも捨てねばならぬ。
 家を守るとはそういうことだ」
icon_19.jpg 三河の大名。弱小な地方豪族であったため、
幼少より人質として忍従の日々を過ごし、
思慮深く忍耐強い性格を育む。
独立してのちも苦悩の年月を重ねるうちに、
清濁あわせ呑む覚悟を身につけ、
泰平の世という目的へ向かって着実に歩を進めていく。
CV:中田 譲治

  修得Lv 戦技名 効果
戦技 1 波断 30秒間、矢や銃によるダメージを受けない
20 狙撃 30秒間、矢や銃の攻撃に修羅属性が付与される
40 鉄壁 15秒間、攻撃によるダメージを受けない
60 絶陣 30秒間、味方全軍の防御力が大幅に上昇する
80 覇気 周囲の敵にダメージを与える

武器 レアリティ 名称 入手方法
武器 筒槍 初期武器
★★ 砲烙槍 筒槍を進化
★★★ 槍破炮震 砲烙槍を進化
レア武器1 ★★★★ 煌刃獲加武 関ヶ原の戦いで「決戦開幕」「毛利への備え」「忠義の形」「寝返り工作」「吉継最後の策」達成
レア武器2 ★★★★★ 東照葵火祭 煌刃獲加武を入手後、
練武館で20000ポイントと交換

  秘奥義 極意 C8 C9
固有属性 紅蓮 紅蓮 紅蓮 紅蓮
※C8、C9とは通常攻撃7、8発後のチャージ攻撃の意味


その他

攻撃速度、攻撃範囲、攻撃の隙等はどれも標準以上に優秀だが、基礎攻撃力が低いため高難易度や高士気ゾーン
になると一気に辛くなる。
これは装備アイテムの技能でも補い切れないため、武器を自作しポイント購入で必要属性をMAXまで上げよう。
その上で瀕死を維持し、技能背水や鋒矢などでバックアップするのが良い。


武器の属性は修羅凍牙ほぼ一択、技能は勇猛鋒矢に加え、破天・神撃・不抜がオススメ。

通常攻撃5発後のチャージ攻撃が安定しているが、気絶確定攻撃のため、敵の気絶中に追撃すると浮いてしまう。
気絶させた場合、敵の気絶回復時の首振りまで待ってから攻撃すると地上ヒット扱いでコンボを継続できる。
6発後のチャージ攻撃はガード不能。高士気ゾーンではやや微妙だが高威力なため、影技の代わりにも使える。

武器の属性Lvが高く、極意や鋒矢の発動中なら通常攻撃連打が強力。
奥義は一つ一つの弾にダメージ判定があるため、密着して出すとダメージが跳ね上がる。
弾数が五右衛門より多く一見上位互換だが、家康の方は弾が壁に当たっても爆発せず、追加ダメージがないため、
最大ダメージではあまり差はない。敵を凍結させるか、壁際の敵へ密着して出そう。
皆伝は範囲が狭く、威力も高くないため、時間的に追い込まれない限り使う場面はほとんどないだろう。

                   ※  ※  ※

レア武器の獲加武は、雄略天皇の元の名・獲加多支鹵・ワカタケルからきている。
ワカタケルは兄弟親族を片っ端から暗殺し、あるいは唆して暗殺させ、皇位を奪った事で知られている。

事はワカタケルの兄でもある当時の天皇が家臣に騙され、忠臣だった叔父・マヨワの父を殺した上、マヨワの母
を奪ったことに始まった。後にこれは冤罪と発覚するのだが後の祭り。

数年後、このスキャンダルをワカタケルから告げられたマヨワは、ついカッとなって天皇を殺してしまう。
「計画通り」と邪笑を浮かべたワカタケルは天皇暗殺の事実を兄弟へ告げるが、兄弟達は臆して動かなかった。
これを好機と見てワカタケルは兄弟たちを殺し、敵討ちの大義名分でマヨワを討ち、更に家臣の人気が高く
先代が後継候補筆頭としていたワカタケルの従兄弟たちをも暗殺する。
かくして政敵を全員排除したワカタケルは皇位についた。新世界の神・雄略天皇の誕生である。

家康も長男・信康や正妻・築山殿をはじめ多くの身内や、豊臣家の後継者などを片っ端から暗殺や風評操作で
死に追いやった容疑があり、家康がワカタケルの如く陰謀と暗殺の末に天下を手にしたことに因んでいると
思われる。詳しくは後述の※1や服部半蔵等を参照

また雄略天皇に退けられた兄は安康天皇というが、家康に因む安康と言えば鐘の「国家安康」問題。
徳川家は国家安康を「家康の名を二つに切って呪う不届きな言葉」として豊臣家に因縁をつけており、
家康にはすげかわり説が根強いことから、家康が安康こと先代の家康を退けて松平家を乗っ取った容疑も
含んでいるのかも知れない。

第二レア武器の東照葵火祭は、いわゆる家康の神名「東照大権現」と徳川家の家紋の葵からきている。
神道では古来より英雄を倣うべき先駆者とし、神として崇める習わしがあった。
晩年の家康は自身が祀られる事に難色を示していたが、南光坊天海によって家康の遺志は無視され、家康に縁の
ある各地で東照大権現を崇める祭が作られてしまうのだった。詳しくは後述の※5参照



※徳川家康は戦国最後の勝者であり、勝者が残した「正史」は他でいくらでも語られているため、
 敢えて家康を礼賛しない記録を強調し、家康オルタ的に構成していますのでご注意下さい。

260年の泰平の世を築いた天下人。
長き人質期間やワントップを否定する三河家臣団の気風もあって、前半生でひたすら耐え忍ぶ日々を過ごしたが
三方ヶ原の敗戦を機に成長を遂げ、信長や秀吉が亡くなった契機に徳川家を躍進させ、天下を制した。

政治と武術の双方に優れている上に、信長や秀吉、信玄、氏康など周囲の有力大名の長所を際限なく吸収し、
自分のものにする特技を持つ超人で、「さすおに」ならぬ「さすいえ」的な伝説が数多く残されている。

ただ三方ヶ原の戦いまで三河家臣団から受けた悲惨な扱いや、度々の人の変わりよう、急なレベルアップぶり、
史料の各所から見られる不審な点、事件からダミープラグ的な替え玉説も根強く、隆慶一郎をはじめ
数多くの作家から題材にされた。


松平家は三河(愛知東付近)の土豪だった。
家康の祖父は10年で三河を統一したほどの英雄だったが、松平家の急速な勃興は三河の国人から反発を受け
家臣に暗殺されると、家康の父は一旦三河から離れたのち、今川家の属国の領主として三河に復帰した。
だがその家康の父も数年後に家臣に暗殺されてしまう。

家康も6歳の時に松平家の臣従の証として今川家に送られるところを家臣・戸田家の裏切りで織田家に売られ、
人質交換で今川家の人質に戻されたという。
人質時代に家康は近所の今川家臣から度々侮辱されたようで、今川氏滅亡時に多くの今川家臣が家康に許された
が、その今川家臣の家だけは許されず、族滅処分を受けており「もう死ねすぐ死ね早く死ね」という勢いの
怒りの書状が残されていたりする。

ただ家康は幼少時、乳母に甘やかされてワガママ全開で育てられていた。
具体的には信長の父らお偉いさんが居並ぶ席で小便を我慢できず、席を外すとその部屋の前の庭でたれ流したり
鷹狩りの際に先の今川家臣の屋敷に無許可で侵入したり等、数々のやらかしをしでかしたため、信長の父はこの
乳母を解任し、家康から遠ざけた程であった。
後に触れる替え玉説が間違いであれば、先の今川家臣への厳罰は逆恨みの可能性も考えられる。

家康は今川の人質時代に今川家から正室を娶り、その正妻が長男・信康を生んだあと桶狭間の戦いで義元が
討たれると松平家は今川家の混乱に乗じて独立し、信長と同盟を組んだ。
松平家は今川から虐げられていた井伊家の案内で遠江(静岡西)を制圧し、今川領を侵食してゆく。
井伊直虎参照

だが家康は義元の織田領侵攻中に暗殺された、とする説がある。
この説では当時信康は3歳であり、信康が元服して正式に松平家を継ぐまで別人に家康の替え玉をさせたという。
これを裏づけるように桶狭間後に家康の正妻は築山で軟禁され、のちに信康へ家督を継がせようと徳川家臣が
分裂すると、信康と家康の正妻はありえないような罪を着せられ処刑された。
その罪状は徳川家お得意のテンプレ的風評に基づいた言いがかりであり、冤罪の可能性が極めて高い※服部半蔵参照

また家康は亡くなる数年前に「私は(戸田)又右衛門に売られて19歳まで駿河(静岡中央)にいた」と述べたが、
当時家康に随行していた者に又右衛門という名はなく、また戸田一族も家康を売った記録を否定しており、
つじつまが合わない。

若き日の家康が徳川姓を名乗った件も非常に疑わしい。当時は家名のメンツが非常に重んじられたため、
普通なら良いことは一つもない※2
自ら姓を変えたり詐称する者は、秀吉のような出自の身分が極めて低い者が成り上がる際、過去を消すために
用いられるケースがほとんどだからだ。

桶狭間後、家康は秀康や秀忠、忠吉と多くの子供を作るが、家康は女中など手近な女性に手を出しまくった。
次男・秀康の母の出自も卑しかったため、家康は重臣から「片っ端から女に手を出すんじゃねえ」と怒られ、
戦場でも家臣から怒鳴られ、会議でも家康を無視し家臣同士で物事を決める事すらあった。

更に桶狭間直後に起きた一向宗の三河一揆ではナント家臣の半分が反乱に加担し、半年も家康に抵抗している。
ただ本多忠勝をはじめ、一向宗徒の重臣が何名か家康側についていた記録もあり、家康が替え玉だとすれば
三河一揆は一向宗の反乱でなく、替え玉が起こした反乱とする見方もある。

替え玉の真偽はともかく若き日の家康はまさに傀儡、ダミープラグに相応しい扱いだった※3
当時の家康は年増を好んだと言われ、日々受けていた精神的苦痛をやわらげてくれる包容力を異性に求めたのは
容易に想像がつく。

そんな家康の転機となったのが三方ヶ原の敗戦と本能寺の変だ。
信長を討つべく出陣した信玄は徳川軍の迎撃隊を速攻で打ち破ると、敗走した家康が浜松城に篭ったのを見て、
これみよがしにスルーしてみせた。
家康は信長から「自領深くまで引きつけるから待機しろ」と言われており、家臣の反対があったにも関わらず
敵を見逃すのは名折れと出撃を強行し、待ち構えていた信玄にフルボッコにされ糞尿まで漏らして撤退した。
家康は短期間に二度も武田軍に敗北を喫したのだ。

三方ヶ原の戦死者には、いわゆる家中の親家康派が少なからず含まれており、家康は大変なショックを受けた。
実際、家康はこの時の失態を戒めとすべく、わざわざ当時の表情を描かせて残したという話があり、以後家康は
生まれ変わったかのようにキレのある活躍をしだした。
この逸話の絵は「しかみ像」と呼ばれているが、この絵のモデルは家康ではないとする説もある。


本能寺の変では、家康は直前に信長から呼ばれて饗応を受け、堺で観光をしていたが、信長討死の報を聞くと
短期間で岡崎城まで戻り、光秀を討とうとせず即座に織田領へ侵攻し、信濃(長野)と甲斐(山梨)のほとんどを
手中にするという、素早い切替で一気に勢力を拡大した。
家康は信長の横死を徳川家が織田家から独立する好機と捉え、逃さず実行してのけたのである。

2年後の小牧長久手の戦いでも猪突せず、城周辺を要塞化して万全の体制で待ち構え、秀吉が別働隊を出すと
迅速に出撃してこれを殲滅し、更に秀吉の大軍の追撃もかわして城に戻るという離れ業してのけた。
豊臣秀吉参照。

たとえるなら猪姫の中の人が突然宗茂か信之にでもなったかのような豹変ぶりで、それまでの愚直な性向と
違い過ぎることから、家康は三方ヶ原または本能寺の変の前後で逃げ切れず死んでいたとする説もある。

ただ家康は武田滅亡後、信長の処刑の命に反して武田遺臣をこっそり匿っており、三方ヶ原の反省と併せて
武田の軍略を取り込んだと考えればそれなりに説明はつく。
が、当時家康は40前後である。40歳は不惑と言われるように思考が固まって変われなくなる年代だが、
自身の家臣を大勢死なせた敵の軍略を認め、自分の物とできるだろうか。

もし本当にそれを成したのであれば、家康は超人だと言わざるを得ない。


ともかく本能寺の変後の活躍ぶりから三河家臣団は家康を認めだしたようで、徐々に家康は家中での発言力を
高めていった。
立花宗茂に対する扱いが分りやすいが、散々イジメておきながら力や実績を見せられると手のひらを返すのが
三河家臣団の特徴のようだ。
また三河時代の徳川家は領民に苛政をしいたようで「味噌狸の腹黒野郎」という意味の狂歌が浜松の領民の間で
根強く歌われるほどであった。
このイジメるかイジメられるかという両極端な体質は、江戸幕府の統治方針にも大きな影響を与えている※6

ただ家康は家中の地位こそ確保したものの、徳川家としては秀吉に臣従を強いられ、上田城の戦いでは真田に
辛酸をなめさせられ、小田原征伐後には関東へ領地替えをさせられと耐え忍ぶ日々は更に続いた。
豊臣秀吉真田信之参照


だが家康は朝鮮兵役や検地を逃れて力を蓄え、豊臣政権の自爆につけいって諸大名に金銭と心理の両面から
貸しを作って「イザという時に頼れる徳川家」の風評を高めていき、秀吉が亡くなる頃には戦わずして
諸大名から次期天下人と認められていたようだ※4

前田利家や石田三成をはじめ、豊臣政権の存続を願う者は秀吉の生前から家康に政権を譲るまいと苦心したが
利家も秀吉没から半年後に亡くなり、三成も秀吉の失政を補うには至らなかった。

家康と三成では、関ヶ原直前の諸大名への書状数に大きな差があることから、三成が調略を軽んじたというより、
家康が関ヶ原前に既に調略を完成させており、ダメ押しの確認をする程度だったという方が自然と思われる。


関ヶ原の前の会津征伐では、家康は西軍の作戦を完全に見抜いており、上杉と佐竹の張った包囲の罠をかわし
記録上では秀吉の中国大返し並の超スピードで大坂~江戸・江戸~会津間を往復しながら、江戸で何日も無為に
過ごして三成が起つタイミングを計り、素早く関ヶ原に戻っている。

西軍の総大将であり、政権奪取の好機と野心を燃やす毛利輝元に対しては、毛利分家の吉川広家らを調略して
軍事行動の阻止に成功し、岐阜城に篭る三法師こと織田家当主も速攻で調略して秀忠の進軍も助けた。

家康の誤算は秀忠へ進軍を速める使者が遅れた事と、寝返り工作がうまく行き過ぎて西軍があまりに早く総崩れ
になったため、本戦決着の決め手として花を持たせるハズだった秀忠隊・3万5千が間に合わなかった事だが、
ともかく豊臣家臣同士を共食いさせた事で徳川隊はたった8千の寡兵で東軍を勝利に導いた。

ただ寡兵でも徳川の意志を味方に見せつけなければならないために徳川隊の負担は大きく、西軍主力と真っ向
から戦った、徳川四天王の井伊直政と家康の四男・忠吉は関ヶ原での負傷が元で亡くなった(とされている)。


関ヶ原後、家康は人が変わったように豊臣家を懐柔し、臣従させようと手を尽くした。
無論豊臣恩顧の大名が亡くなるまでは穏便に事を運びたい、ということもあっただろうが、その軟攻ぶりは
まるで秀吉が乗り移ったかのようであり、常にイジメるかイジメられるかという境遇で生きてきた家康、
ひいては徳川家全体の性向とは真逆だったと言える。

また関ヶ原まで年増好みだったのが突然若い女好きとなり、亡くなるまで駿河で貿易での富を独占し、
秀忠に自分が出した書状を追認させる二重書状を数多く発行させた。
大御所として将軍家をバックアップするなら秀忠の書状の後に自分の書状を出すのが筋であり、諸大名から
見れば家康が秀忠を力でねじ伏せ貶めていると受け取れるような施策をとったのだ。

芝居かも知れないが、夏の陣のあと家康は「秀頼を保護しようとしたが間に合わず泣き伏した」話まで存在し
これらのことなどから関ヶ原前後で家康は死んだのではないかという説もある。
もっとも人は立場が変われば視点や必要とされる振る舞いも変わるため、決定的ではないが。


ところが二条城の会見で秀頼が徳川家に臣従すると、徳川家は豊臣家へ急に高圧的な姿勢をとりだした。
家康が70歳を越え、体調を崩しがちになったからだとか、清正などをはじめ豊臣恩顧の将がほとんど亡くなった
からとも言われており、家康がというよりは徳川家が家康死後の情勢を考えて焦ったのかも知れないし、
秀頼の臣従を見て豊臣家の弱腰につけいったのかも知れない。

なぜなら二条城の会見の時点で、家康の子で大人と言えるのは秀忠と勘当した忠輝しかおらず※1
家康亡き後秀忠が何らかの理由で亡くなれば、後継者不在で凋落した豊臣政権の二の舞になりかねないからだ。
ともかく豊臣方は一気に態度を硬化させ、大坂城に兵を集めて対決の姿勢を見せだした。

大坂の陣は諸大名への見せしめの意味合いが強かったが、それまで幕府が諸大名へ理由をつけては処分してきた
ことが祟り、目をつけられないよう手を抜いて戦った大名家が少なくなかった。
また三河家臣団も忠勝ら戦国時代の経験者がほとんど亡くなっていたのに対し、烏合の衆とはいえ豊臣方には
将から雑兵に至るまで歴戦の兵が中心だったことから、実戦力的には兵力差ほどの差はなかった。


特に冬の陣では徳川方は豊臣方の倍しか揃えられず、攻城3倍段のセオリーから言えば徳川方のが不利だったが、
家康は本丸を大砲で狙わせて淀殿にヒステリーを起こさせ、和睦に持ち込んだという。
家康は最初から和睦目的だったとされているが、後付けの柔軟な切替だとしても評価を落とすものではなく、
秀吉のペテン攻城に匹敵する奇策だったと言える。

豊臣方は和睦条件で大坂城を堅城たらしめていた二重の堀を埋められ、戦略的に大きな不利となった。
ところが、誰もが徳川の勝利を確信した夏の陣では、徳川方は豊臣方の数倍の兵力を揃えていたにも関わらず、
豊臣方の最後の突撃に抗いきれずに秀忠の本陣は壊走寸前、家康の本陣に至っては完全瓦解して軍旗まで倒され、
家康は籠で逃げるハメになった。

家康は堺の南宗寺まで逃げたものの事切れていたとする記録があり、南宗寺には家康の墓まで存在し、
前大戦で焼けてしまったものの東照宮も建てられていた。


徳川家の記録では、家康は大坂の陣の翌年に(ガンで)亡くなったという。
家康は医者嫌いで国内外の関連書籍を集めて薬学に通じ、自分が作った薬以外は決して飲まなかったり、
既に武術の達人でありながら、無刀取りの奥義を持つ柳生新陰流をあえて将軍家指南役に取り立てたりと、
自分が生き残るために手を尽くした形跡が見られる。
家康は自分の父・祖父・子達を含め多くの者が天寿を全うしなかったことから、身内も含め暗殺を恐れていた
のかも知れない。


※1 偶然だぞ

九男義直、十男頼宣、十一男頼房はいずれも関ヶ原前後に生まれた家康の子で厚遇され、のちに徳川御三家
となるが、それ以前の家康の子は秀忠を除いて全員夭折し、唯一生き残り知勇に優れた鬼っ子・六男忠輝も
非常に不遇な扱いを受けている。

以下家康の子孫と誰が後継に推していたか、その享年・没年を並べておく。

長男・信康(20)1579年没―築山殿(37)1579年没  ※居城・岡崎城の徳川家臣から家康を上回る支持を受けた
七男・松千代(6)1599年没             ※忠輝の同母兄弟
八男・仙千代(5)1600年没             ※義直の同母兄弟

関ヶ原の戦い 1600年9月

五男・信吉(20)1603年没             ※母はねねの実家の血に連なる
六男・忠輝(91)1683年没―伊達政宗(69)1636年没 ※幼少時に家康から嫌われる。1605年に勘当処分
四男・忠吉(28)1607年没―井伊直政(39)1602年没 ※秀忠の同母兄弟。直政の娘を娶る。関ヶ原戦功の二位
次男・秀康(34)1607年没―本多忠勝(62)1610年没 ※幼少時に家康から嫌われる。関ヶ原戦功のトップ

大坂の陣 1614-1615年

三男・秀忠(53)1632年没―榊原康政(58)1606年没 ※2代将軍
 孫・忠長(27)1633年没             ※秀忠夫妻や諸大名から兄・家光を上回る支持を受けた
九男・義直(49)1650年没             ※尾張徳川家の祖。家光病床時に謀反を疑われる
 孫・家光(47)1651年没             ※3代将軍。病弱でドモリ癖があった。家康の実子説も
十一男頼房(59)1661年没             ※水戸徳川家の祖
十男・頼宣(69)1671年没             ※紀州徳川家の祖


※2 徳川への改姓について

徳川姓は家康が源氏の傍流を自称するために得川家から取った、というのが定説だ。
だが当時の武家は家名に箔をつけるため、源氏や平氏の血筋を自称することはあっても、姓自体はまず変えない。
現代のような大手メディアによる風評工作も難しく、先祖が代々築き上げてきた家名というブランドイメージは
個人の命よりも重く、何にかえても守るべしとされていた。

実際、家康が朝廷に改姓を申請した際、あまりに非常識さに松平家の改姓は許されず、家康個人にのみ徳川姓が
許され、江戸時代でも基本的に将軍が徳川姓を名乗る形になっている。

逆に言えば、家康には自分だけでも松平姓を捨てたい理由があったということだ。
まして家康が替え玉なら、松平姓は傀儡の証だから捨てたいと考えても不思議ではないだろう。
もっとも若気の至りで「天下人に俺はなる」と当時からうそぶいていた可能性もゼロではないが・・


※3 トップが傀儡ってどういうこと?

要約するといくら立場が上でも、最終権限を持つ者達の不興次第で即刻首を挿げ替えられたり、自説を取り下げ
させられたりする、トカゲのシッポ的状態。

たとえば日本は少し前まで長老政治と揶揄され、首相に最終権限がなかったし、先進国のトップながら
近代でも元首が容易に暗殺されてしまう某国も事実上の傀儡政権が続いていると言える。
ではどこに最終権限があったのかというと、挿げ替わるトリガーの施策を見ればわかりやすい。

「Yes,We can!」の人が現在進行形で自国の覇権を失墜させ、自国に大変不利益な外交を繰り返しているのに
無事任期を全うしたのは、最終権限を持つ者達にとってそれが想定内だからに他ならないし、
いい人過ぎて直前に聞かされた説に容易く感化され、言葉の無差別テロを繰り返しているルーピーに至っては
文字通りの口パク人形でしかない。

晩年近くの家康に不審な判断が多い事や、三代将軍家光が家康の実子であった可能性も併せれば、傀儡として
貶められ、忠長を潰されても耐え忍び、徳川政権を磐石にした秀忠はもっと評価されるべきなのかも知れない。


※4 家康や徳川家の経済政策について

家康は倹約家、平たくいえばケチだったことで知られている。
「使ったと思って貯める」「購入対象が最初から存在しないと思えば良い」「無駄遣いをした家臣を遠ざけた」
など数え上げればきりがない。
だがそれらは全て有事のために力を溜めていただけであり、自分が贅沢をするためではなかった。

浜松時代、家康が領民になじられてまで搾り取り、溜めた金は本能寺の変の直後の領土拡大の戦費に遣われ、
その後関東で溜めた金は秀吉の朝鮮出兵で財政難に陥った諸大名へ貸しを作るため、惜しみなく遣われた。
聖書にも「金の貸借は人を奴隷にする」とあるように、家康はこの心理的戦略を最大限に活用したと思われる。

だが状況が変われば必要な政策も変わる。
家康の死後、徳川政権は財政難に陥ると武士や領民を問わず、贅沢を禁じる倹約令を度々出したが、
財政難を解決する=累進課税を徹底するには経済の活性化が先決であり、倹約令はむしろ逆効果でしかない。
徳川政権は家康を神格化※5するあまり、家康が行なった有事のための倹約政策まで闇雲に神格化し「主義」
にしてしまったのだ。

当時、戦国時代~江戸時代初期はまだ食糧難だったため、米が通貨の代用品として税制に用いられたが、
国内が戦乱で荒れ果てた状態から復興し、米の価値が相対的に下がると、地域ごとの米の取れ高による税制は
徳川政権の税収を年々目減りさせていった。
この流れを食い止めようと米相場に頭を痛めたのが暴れん坊将軍の中の人だが、抜本的な税制改革とまで
至らなかったようだ。


※5 家康の神格化の経緯

「神君」と呼ばれ、東照宮で神として祀られた英雄・家康だが、家康は思い上がっていた訳ではない。
実際「ワシの死後、お主らはワシを神として盛大に祀るつもりだろうが、墓も移さず慎ましい社にしてくれ」
という遺言を遺しているが、なぜその遺言が守られなかったか、そこにしゃしゃり出てきたのが南光坊天海だ。

日本では古来より先祖を敬い、英雄を神として崇める風習があった。
これは、ホーランドの如く先駆者が築いた経験則を疎かにした者が不幸を招いた件を「祟られた」と捉える
神道の先祖信仰が元になっている。

天海は事あるごとに神道と皇室を目の仇にし、蔑ろにした形跡から、日本の天皇制を覆そうと企んでいたようだ。
徳川政権のブレーンとはいえ、仏僧の領域を明らかに超える蠢動をしていた天海は、数々の反発を受けたため、
まず秀忠を篭絡し、将軍家から神道を切り離すところから始めた。

天海は家康が秀吉を神として祀った豊国神社を壊させた事を利用して「家康公は神道嫌いだったから秀忠様も
見習うべき」と主張する。
実際にはそんなことはなく、家康は天下人として送った海外への書状でも「日本は神の国」と記していたにも
関わらず、秀忠は同様の書状で「日本は儒教と仏教の国」と言い出した。
そもそも日本で英雄を神認定できるのは吉田神道だけであり、遺言でも家康は神道を認めている訳だが、
秀忠はそこに気づかないくらい天海に手玉に取られていたようだ。

もちろん家康の「墓を移すな」云々は当然の如く無視され、天海は東照宮を豪華絢爛にし「ワシの死後も共に
歩みたい」人物として、高虎と自分の名を刻ませた。
天海は自分の地位を確保するため、家康の遺志を蔑ろにする一方で家康の威光を利用したのだ。
まるで僧侶宅配便で仏教を蔑ろにしながら、お布施をピンハネするどこぞの脱税脱法企業みたいな話である。

ただ本件は家康替え玉説の真偽や徳川家の躍進に天海がどれだけ関わっていたかで、若干見解が変わるのは
言うまでもない。


※6 イジメ、かっこ悪い?

徳川政権は人の命を軽々しく扱う、平たく言えば「ころしてでもうばいとる」乱世の気風を悉く否定し、
国内の治安を改善するために武家を中心に圧政を行ない、容赦ない粛清を続けた。

徳川政権の特筆すべき点は、武家を支配層と同時に受刑者の如く扱い、彼らの牙を抜いた事だろう。
粛清は豊臣恩顧の大名はもちろん、家康の親族にすら容赦なく行なわれた。
権力争いは別として、支配層が同じ支配層を法でここまで抑圧するシステムを作った政権は、世界でもかなり珍しい。

特に欧米諸国では支配層が戦争ではなく娯楽で領民を殺しまくったり、宗教指導者たちが異端審問の名目で
民を拷問・殺害しまくった上、庶民までがこれに乗っかったり、人でなくとも野生動物を娯楽で殺しまくって
勇を誇る文化が根付いていたのだから※7

結果、江戸時代初期には取り潰しや平和な世に適応できず職を失い、再仕官できない浪人が全国に溢れかえった。
その数はおよそ数十万人とも言われており、彼らの多くは大坂の陣や島原の乱、由比正雪への乱などへ参加し、
幕府に楯突くことになる。

かつて学校で士農工商と教えられた江戸時代の身分制度だが、言うほど武士は優遇されていなかった。
まず必要ポストよりも武士の数の方が遥かに多かったため、多くの武士は常にリストラのリスクを抱えていた。
先祖の功で役なしのまま給料をもらえる家もあったが、役がなければ活躍=立身の機会もなく飼い殺し状態、
うっかり子孫の誰かがやらかせば、減俸はおろか腹を切らされたり家の存続に関わる事もザラ。

つまり武士の多くは現状の地位を維持するだけで精一杯、生まれながらにパソナルーム行きというか、近年の
イチローやミラン時代の本田の如く飼い殺しにされても腐らず、かつ機会をいつ与えられても職務を果たせるよう
一生備え続けなければならず、そのストレスから酒に溺れて命を縮める者も少なくなかった。

また武士優遇の筆頭に挙げられる帯刀や無礼打ち(切捨御免)の権利だが、無礼打ちが許されるには正当な理由や
証人などを伴う届けを必要とし、届けの審査次第では下手をすれば斬った武士の側が死罪になる事すらあった。
そのため、町人がこの法を盾に下級武士へ「斬れるものなら斬ってみろ」と煽る命がけの遊びまで生まれたという。

更に江戸時代では給料を米で配る石高制が敷かれており、領主お抱えの商人に給料の米を換金してもらっていたが
※4の通り、泰平の世が続き米の価値が下がると、ただでさえ少ない給料が目減りしていった。
江戸時代中期以降の下級武士の年俸は、現代の相場にしておよそ100万~200万程度しかなかったようだ。

武家はこの中から生活費はもちろんのこと、正装や刀の維持費などを捻出し、家の規模が大きくなる程
下人や部下などの人件費、屋敷の維持費、付け届けなど諸経費が雪だるま式に増えていった。
前述のような貧しい武家では兄弟や女性は口減らしのため、婿入り・嫁入りしたり、仏門に入るなどして
家の負担を軽くしたり、農業や製造、商売などの内職に精を出さざるを得ず、内職が事実上の本職になってしまう
例も少なくなかった。

おまけに立身で数少ない勝ち組に入れたとしても、少しでも調子に乗れば周囲の嫉妬により引きずり降ろされる
リスクと隣り合わせであり、当時の不遇ランキングのトップは天候という最大の敵を抱えた農民だが、
多くの武家も上位に入ってきそうな勢いだ。

こうした抑圧に加え、鎖国(通称)や生類憐みの令などの数々の縛りを経て、千年近く続いた武家の牙は抜かれ
人の命を軽々しく扱う乱世の気風は消え去り、こと廃刀令が敷かれた明治以降、世界で最も治安が良く、
世界で最も略奪等の少ない軍隊を抱える国の1つへと日本を至らせる一因となった。

イジメはイジメに違いないし、全てが清廉潔白で公正とは言いがたいものの、代々の為政者が徳川家の定めた
法の精神を疎かにせず、泰平の世を維持する大義名分を大事にし、積み重ねた結果なのは確かだろう。
それはそれとして真田家に対する長年のイジメはかっこ悪いと思うが。


※7 未来に生き過ぎて周回遅れになる日本

「どうせ中世の話でしょ」と思う人もいるだろうが、実はそうではない。
たとえば前世紀から欧州では4輪、2輪競技が盛り上がり出すが、これは支配層同士の代理戦争が第一であり、
フェンスや救急体制など観客や競技者の安全は全く考慮されていなかった。
支配層達の目の前で事故が起き、競技者はもちろん観客が何百人死傷者が出ようとレースは続行され、死んだ
競技者は初代爆音小僧並の伝説を以て美化され続けた。
前世紀後半に「俺たちは古代の剣闘奴隷じゃない」とばかりに競技者が組合を作り、ストライキで抵抗するまで
安全面に関しては長年放置されていたのだ。

他の例では、支配層のトップが鎮座する国では搾取が凄まじすぎて庶民が最低限食を楽しむ文化すら破壊され、
先進国にも関わらず世界でダントツのメシマズ文化が現代まで残ってしまうくらいだし、
近年では支配層がサッカーに目をつけパワーゲームや搾取のために徒にカップ戦を増やした結果、
過密日程で選手生命を著しく縮められたりなど例を挙げればキリがない。

現代ですらこの有様であったから、中世では庶民はよりダイレクト、ダイナミックに悲惨な扱いを受けていた。
CCCランサーがなぜ自分が裁かれたか理解できなかったのも、彼女がやり過ぎたから問題にされただけで、
やったこと自体は当時の常識だったからに他ならない。
そんな状況で支配層が宗教を通して庶民に自殺を禁止したのだから、文字通りの生き地獄であっただろう。
現代の欧米人はそんな歴史を否応なしに呑まされ続け、生き抜いてきた末裔なのだ。

これを開国時に文字通り土足で屋内を踏みにじられたことで痛感した日本は、侵略の恐怖を払拭し、グローバル
スタンダードに合わせるべく必死に富国強兵に努め、一周回って周回遅れの形で戦争への道を歩む事になる。
徳川家の政策がいかに世界的に先進的かつ異質であったかお分かり頂けただろうか。



コメント・情報提供

  • 追加情報・間違いなどありましたらどうぞ。
  • 最新20件を表示しています。

コメントを投稿するには画像の文字を半角数字で入力してください。


画像認証

  • 最終更新:2018-12-09 15:21:42

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード