真田幸村


真田幸村

日の本一の兵 「真田の誇りにかけて、恥ずかしい戦はできぬ!」
icon_00.jpg 信濃の豪族・真田家の若武者。もののふとしての信義を重んじ、
たとえ困難な状況にあっても己の信じた道を貫こうとする。
兄である信之とは幼い頃から仲がよく、敬意と信頼を寄せている。
CV:草尾 毅

  修得Lv 戦技名 効果
戦技 1 猛攻 30秒間、攻撃力が上昇する
20 忍耐 30秒間、防御力が大幅に上昇する
40 連舞 30秒間、コンボ数の増加量が上昇する
60 炸裂 30秒間、攻撃がヒットしたとき
必ず敵をよろけさせる
80 鬼神 30秒間、攻撃力が非常に上昇する

武器 レアリティ 名称 入手方法
武器 十文字槍 初期武器
★★ 赤龍槍 十文字槍を進化
★★★ 紅牙飛燕 赤龍槍を進化
レア武器1 ★★★★ 炎槍素戔鳴 大坂籠城戦で「惑いを払う」「義を示すため」を15分以内に達成
レア武器2 ★★★★★ 神槍五十猛尊 炎槍素戔鳴を入手後、
練武館で20000ポイントと交換

  秘奥義 極意 特殊
固有属性 紅蓮 紅蓮 紅蓮


その他

攻撃速度が若干重いが基礎攻撃力が高めで、通常攻撃3発後のチャージ攻撃が高性能。
浮かし属性つきの範囲速射攻撃でありながら一発あたりのダメージが高めで、高Lv修羅/烈空属性をつければ
空中コンボ補正を感じさせない超威力となる。
ただ他の攻撃は微妙で「これしか自分を表現できない」的な不器用さは幸村をあらわしていると言えなくもない。


通常攻撃やチャージ攻撃の発生が全般的に遅めで、閃光や凍牙、金剛での状態異常が欲しいところ。
主力となる通常攻撃3発後のチャージ攻撃群は閃光武器と併せることで最大限に強化される。
また閃光武器以外なら4発後のチャージ攻撃2段止めも悪くない。

特殊は攻撃時の食らい判定が大きく、素で出すと雑兵にすらあっさり止められるが、チャージ攻撃をキャンセル
できるため、隙消しや間合い調整などに使おう。
チャージ攻撃をキャンセルした場合のみ即フルチャージとなり、フルチャージでは固有属性の紅蓮がつく。
これを受けた地上の敵は崩れ落ちダウンし、追撃で浮いてしまうが、属性効果で気絶・凍結した場合は
状態異常が優先され、立ったままになり、地上判定で追撃できる。

奥義は締めの攻撃範囲がやや狭いものの威力が高め。
極意はやはり通常攻撃3発後のチャージ攻撃のループだが、閃光武器では浮きすぎてしまうので、
即皆伝の方が良いかも知れない。武器に閃光属性がなく、鋒矢と同時発動中なら通常攻撃連打も選択肢に入る。
皆伝は高威力だが範囲が狭いため、なるべく接近してから出そう。

武器の属性は修羅or烈空に加え、閃光がやや抜けており、次いで凍牙・金剛と続く。
技能は勇猛+破天さえあればよく、3つ目はお好みで。なお幸村の攻撃は鋒矢の速度上昇効果が薄いことに注意。

                   ※  ※  ※

レア武器の素戔嗚尊とは、日本神話に登場するスサノオから来ている。
スサノオは日本神話で日本創生に関わった七神・イザナギ・イザナミの子で、アマテラスやツクヨミの弟にあたる。
※イザナギ・イザナミについては主人公参照

スサノオは武勇に優れ、粗暴な行跡が多い聞かん坊だったが、父から海を統べるよう命じられた際に
「俺は母さんの葬られた地に住みたいのでお断りします( ゚ω゚ )」と言い出すマザコ・・もとい優しい一面も
持っていた。
このお断りが原因で喧嘩となり、イザナギに出て行けと言われると、スサノオは売り言葉に買い言葉で
これ幸いと母の葬られた地に住もうとする。
だがスサノオは国を出る前に姉・アマテラスの所へ立ち寄ると、アマ姉に口八丁手八丁で説得されてしまう。
何としても出たいスサノオは皆に嫌われるため国中で大暴れし、アマテラスの引きこもり事件を招いて
まんまと国を出て行くことに成功する※阿国参照

そんなトラブルメーカーのスサノオだが、母の葬られた地では人々に役立つことを数多く成して英雄となった
のを見るに、どうも不器用な性格だったようだ。
戦国無双シリーズの筆頭主人公で、不器用な生き方をした幸村の武器に、創作で悪役にされがちなスサノオの名が
つけられたのは決して偶然ではないだろう。

第二レア武器の五十猛尊とは、日本神話に登場するイソタケルから来ている。
イソタケルはスサノオの息子で、スサノオの八岐大蛇退治を手伝ったり、朝鮮半島から持ち帰った苗と思しきものを
用いて国内の植林などを行なったという。

※スサノオのオロチ退治については早川殿甲斐姫参照。

こちらは幸村の父・昌幸をスサノオと捉え、第2次上田城の戦いなど昌幸の下で奮戦した幸村をイソタケルに
ちなんだのかも知れない。



名は信繁。幸村は人質や謹慎の期間が極めて長く、実戦経験は少なかった。

が、真田家のリアル無双武将である父昌幸、兄信之、大叔父頼綱の知略・軍略・無双ぶりを間近で見て育ち、
上杉家へ人質に送られた際には短期間だが所領までもらって養成を受けた。
忍従の日々が続く中、いつか彼らのような戦働きをしたいという思いを大阪の陣で爆発させた結果、
「日の本一のつわもの」と謳われ、真田の名を天下に知らしめた。


幸村の本名・信繁は、武田信玄の後継候補筆頭だった武田信繁にあやかってつけられたと言われている。
だが幸村の父・昌幸は表裏比興(卑怯)と言われた謀将で、長男・信之に源三郎、次男・幸村に源次郎、と名づけ
敵の混乱を狙った、つまり名前すら道具にした記録があるため、どこまで本気だったかは分からない。

幸村は武田家滅亡後、10代後半に同盟の道具として上杉家に人質に送られた。
これは真田家が上田城で徳川家と戦う際に北の上杉家との挟撃を防ぐため、どうしても必要だったのだが、
第一次上田城の戦いで上杉軍は戦場には来たが静観を決め込んだため、昌幸は上杉領へ麦薙ぎ、平たく言えば
嫌がらせの放火テロを信之にやらせており、まるで幸村など真田家にいないかのような扱いをされていた。

上杉家で幸村は所領まで与えられていたが、これを上杉家から才を見込まれていた、とする見方がある。
ただ上杉家には北条氏康の子を人質にもらった際に、厚遇しすぎて内乱を招いた前例があった。
それでも上杉家が幸村に所領を与えたのは律義すぎる家風故か、あるいは幸村に父・兄譲りの才を見込まれた
のかも知れない。

幸村は上杉家で数年を過ごし、上杉家に腰を据えようかというところで、突然昌幸から豊臣家へ人質へ行けと
命じられた。
昌幸が秀吉に取り入るために幸村を利用したのだが、上杉家が上洛して豊臣家に臣従を誓った際に景勝や兼続が
人材コレクターの秀吉にうっかり幸村の才能を自慢してしまったため、とも言われている。
いずれにせよ上杉家にすれば泥棒同然に幸村を奪われたことになるが、天下人目前の秀吉には逆らえなかった。

幸村は秀吉の天下統一後、30前にして大谷吉継の娘をもらいうけ、伏魔殿・大坂城で居場所を得た幸村は
慎ましくも落ち着きある生活を手にした・・と思いきや、5年もしないうちに秀吉が亡くなり、真田家ごと
政権争いに巻き込まれた。

関ヶ原で真田家は家を残すため昌幸と幸村は西軍に、信之は東軍にと親兄弟が東西に分かれた。
幸村は昌幸と共に上田城に篭り、秀忠率いる東軍主力を挑発した上で再三撃退し続け、3万8千もの大部隊を
関ヶ原本戦に参加させなかった※真田信之参照。
だがその本戦で西軍が大敗を喫すると、上田城での活躍が逆に昌幸と幸村を追い詰めてしまう。


幸村と昌幸は戦犯として処刑される予定だったが、信之らの助命により九度山に蟄居で済まされた。
最初は高野山へ配流されたようで、高野山は女人禁制なため、妻子と一旦別れる形になったのだが、
すぐ妻子共々九度山へ移った。
高野山は標高1000mもの高さにあり、現地の僧すら冬は麓へ移っていた程で、寒さに耐えられなかったようだ。

幸村と昌幸は九度山でひたすら赦免を待ったが、最後までその日は来なかった。
大坂城の目の前の九度山に流された時点で「早く豊臣方に逃げ込んで共に滅べ」という幕府の意図は明白。
真に謀叛をさせたくないなら、八丈島に流された宇喜多秀家のように遥か遠くへ配流したハズである。
真田家は二度の上田城の戦いだけでなく、外交でも徳川家に度々辛酸をナメさせており、恨みを買いすぎていた
のだった。

また昌幸は大名時代の生活を忘れられず、九度山に多くの家臣を連れて行ったため、瞬く間に困窮し、
幸村一家は家計の足しにと真田紐と呼ばれる紐を編んで売ったり、信之に度々仕送りをねだるハメになった。

ただ幸村も「かわいそうだから」と未亡人を側室に迎え、子を産ませたりしていたため、困窮は昌幸だけの
責任ではなかったのだが・・

数年後に昌幸が亡くなり、家臣にも離れられた、あるいは節約のため家臣をリストラした幸村は、
大坂の陣までの年月を家族だけで慎ましく過ごした。
蟄居とはいうが無双アニメのように監視が厳しくはなく、時には麓の町に出向いたりと金銭面の問題を除けば
幸村一家は安らかに暮らしていたようだ。
ただ戦の経験がほとんどない幸村が大坂の陣でいきなり活躍した事から、九度山で幸村は父・昌幸から軍略を
受け継いだり武の研鑚を欠かさなかったと思われ、決して九度山でニートをしているだけではなかった。


蟄居から十数年後、幸村は豊臣家が決起すると聞いて大坂城に参陣する。
なぜ幸村が豊臣方へついたかは定かでなく、豊臣家への忠義や上杉家の家風である律儀の影響を受けた説もある。

また幸村は日本が関ヶ原後に江戸幕府の下で治まってゆく中、発想が乱世そのものな父の薫陶を受け続けてきた。
それはある意味父からの刷り込みであり、呪縛でもあっただろう。
幸村はそれ故に思考が硬直し、大坂の陣を一地方都市の反乱ではなく、乱世の延長の如く勘違いした可能性も
考えられる。

ただ穿った見方をすれば、幸村は真田家のために人質や蟄居で人生の大半を犠牲にされ、何一つ自分の自由に
ならなかった。
特に人の最盛期である30代を九度山で浪費させられ「俄かに身体が弱くなり、歯が抜け落ち、髪も白くなった」と
手紙で書く程老いた幸村は「自分は何のために生きてきたのか」という思いが、日に日に強まっていったのだろう。
幸村は孤独感を信之への甘え等の形で紛らわせつつ、生きた証を残したいと徐々に追い詰められたのかも知れない。


幸村は大坂城に参陣すると、兄・信之から手紙で「関ヶ原で私が体を張って助命したのに何て早まったマネを。
お前の子は責任をもって預かるから、真田家のために腹を切れ」と言われたが、
幸村は「父上の遺言であり、兄上の恩義を返すために私は戦うのだ。この戦で勝てば得た褒賞は全て兄上の子に
与えるし、真田家に迷惑が掛からないようにするから」と家臣を通じて返したという話がある、

真田信之にあるように、当時信之は徳川家から真田家が粛清されないよう四苦八苦しており、
幸村が叛旗を翻した豊臣方についたこと自体、真田家の危機を招いているのだが、それが分からないくらい
追い詰められていた、あるいは勘違いしている様子が窺える。

その一方で幸村は大坂城に入った後で初めて「幸村」と名乗った※1という。
幸村の幸は真田家の通字(偏諱)ながら「逝き」の意味を込めていたとする見方があり、幸村は全て分かった上で
「今まで家のために犠牲になって来たんだ。死に場所くらい好きにさせろ」という意地だったのかも知れない。


ともかく豊臣方へついた幸村だったが、当時の豊臣家は幸村の記憶にある秀吉存命時の豊臣家とはかけ離れた、
有様であり、前述のように幸村が状況判断を誤っていたとしても即我に返ったことだろう。

なんせトップの淀殿はヒステリーをまき散らすお花畑、口だけは威勢の良い強硬派がそれを助長させ
秀頼はその母に気圧されてなす所がなかった。
幸村は豊臣方でも数少ない大名家の出自であったが、戦の実績がほとんどなかった事もあり、豊臣家から幸村は
貴族連合軍におけるメルカッツの如く軽んじられた。

当時大坂城には死に場所を求めていた者達が多く集まっており※2、統制が全く取れていなかった。
そのため幸村は大坂城で「士気高揚や結束力向上のため秀頼公のご出馬を」と提案し、腕に覚えのある
者達の支持も受けたが、淀殿や大野兄弟ら豊臣家のトップの反対を受けたために実現はならなかった。

又兵衛・盛親「烏合の衆の浪人たちを秀頼公のご出馬でまとめあげる――まさに乱世の雄・昌幸公を思わせる
見事な策ではござらんか。それを大野兄弟が!」
幸村「あまり怒るな、彼らは病人なのだ――精神面のな。片桐殿のような穏健派は反逆者にしか見えず、
忠告は誹謗としか聞こえない。世が既に徳川幕府の下に治まって皆戦にウンザリしていることもわからない。
病気を育てたのは40年以上前の浅井家の因縁と、10年に及ぶ豊臣政権の栄光だ。
彼らはむしろその被害者なのだ。20年前ならあれで通じたのだがな、不運な人達だ」

などというやりとりがあったかどうかは定かではない。


幸村は大坂の陣で通称「真田丸」などで奮戦したと言われている。
真田丸は元からあり幸村が建てた訳ではないという説もあるが、ともかく堅城・大坂城の正門に設けられた
出城・真田丸は、防衛戦において猛威を奮った※3

なお、講談などでは他の大坂方の将の活躍まで幸村の功績に吸収されており、黒田官兵衛の子などは
「世間は幸村ばかり称えて勝永カワイソス」と嘆いている。

家康は真田が大坂方についたと報告を聞き、昌幸はおらず幸村だけかと安堵した、という話がある。
あえて幸村を追い込み、必勝を期したにも関わらず、家康は見込みの甘さを三方ヶ原以来の本陣潰走という形で
思い知らされることになる。


夏の陣では大坂城に既に堀はなく、開戦前から豊臣方は既に追い詰められていた。
徳川方は2つの街道から大坂城へ向かっており、豊臣方は徳川方の集結を防ぐべく城から討って出たが
徳川方もこれは既に想定しており、豊臣方の先陣は半包囲する形で迎撃された。

豊臣方は奮戦するも統制が取れなかったためか、先陣を率いる猛将・後藤又兵衛の隊を孤立させて失ってしまい、
幸村を後悔させたという話がある。
幸村や毛利勝永らの最後の突撃でも、本来挟撃で家康を逃がさず討つつもりが先走った別働隊のせいで気づかれ、
家康を討ちもらしてしまい、幸村は力尽きて討たれたという。享年48歳(または45歳)


しかし幸村を討たれても真田隊は止まらなかった。
家康は首こそ取られなかったものの、家康の本隊は敗走し10kmも後退を強いられ、一説には敗走前に受けた傷によって
退却中に籠の中で事切れていたとも言われている※徳川家康参照。

夏の陣で幸村は影武者を大勢使った上、最も本物らしい幸村の首も真田隊の通り過ぎた跡から発見された上、
その首が幸村かどうか親族に確認させた際「損傷もあり、変わり果てているので分からない。
お前らがそう思うのならそうなのだろう、お前らの中ではな」と返答を濁した事もあり、
家康は「落ち首を拾っただけだろう」と褒賞を出さなかった。


そして各地で幸村生存説がまことしやかに囁かれだした。繋がりそうな逸話をまとめるとこんな感じになる。

「幸村親子は秀頼を連れて薩摩まで落ち延びた後、とある落ち武者の村で身バレして行方不明になった。
 松平定信の長男で真田本家の当主に迎えられた真田幸貫によると、島津は秀頼を幕府に差し出そうとしたが、
 もう死亡発表しちゃったし今更かつぎ出されても困るから、軟禁しろと幕府が命じたという。
 幸村の子のうち、処刑されなかった者は伊達家が出自を詐称させて匿い、仙台真田となったが※5
 仙台藩の隣の藩で長山盛晃は幸村(真田左衛門)の名が書かれた古い馬具などを大量に見つけたと記した。」

昔はもちろん、現代の新聞やテレビ、ネット、当wikiまで、全ての情報には発信者の願い・意図が必ず含まれる。
真偽はともかく幸村が死後もて囃され、幸村生存説が絶えなかったのは判官びいきもあるだろうが、
戦国が終わって窮屈になった世の中でも自分を貫き、家康に一泡ふかせた幸村が支持されたからだろう。

あまりの幸村の人気ぶりに、後に真田家の子孫が遺した家系図にも信繁でなく幸村と書いたとかなかったとか。


※1「幸村」の由来について

江戸時代中期の講談で信繁の名で活躍させると幕府に目をつけられるため※4、名を変えたという説もあるが
大坂の陣から十数年後、北条家の子孫が編纂した大坂の陣の戦史研究録にて、既に幸村公と記されている。

事実関係はともかく、これによると幸村の名乗りは幸村の子供たちを伊達家に送り届けた真田家の家臣が
証言しており、幕末に幕府からの「信繁と幸村はどちらが真名なのか」という問い合わせに対し、真田家が
「当家は信繁と認識しており、幸村は信繁が大坂城に入った時に名乗ったもの」と返したやりとりとは
一応合致している。
なお、大坂城で本人が出した書状では幸村ではなく信繁で署名されており、名乗りが事実だとしても
分かりやすさを優先したのだろう。


※2 豊臣方の実態

豊臣家が決起する際、大坂方には多くの牢人や諸将が全国から集まった。その数10万。
だがその大半は徳川政権の新体制に適応できず、死に場所を求めていた者達で、真に豊臣家のために戦う気はなく、
やさぐれた多くの牢人によって、大坂城の城下町では俄かに治安が悪化していったという。

彼らは日本が平和になった事で、全国の武家で立場や仕事を失っていった武功派の諸将や、食い詰めた半農半士、
幕府の粛清で主家を潰され、再仕官できなかった者達の他※6
伊達家がスペイン等の侵略の尖兵だった伴天連を通して幕府転覆を企んだため※伊達政宗片倉小十郎参照、
切支丹の取り締まりが強まるも棄教せず、全国の武家で追い出された者達などで構成されていた。
これは後の島原の乱の参加者も同様であった。

本作でも固有台詞がつき、大坂の陣で戦死した後藤又兵衛も、能力をバトル関係へ全振り特化した結果、
平和な世に適応できずに諸大名家を渡り歩いており、死に場所を求めていたと思われる。

なお大坂の陣の直前には「家康が大坂へ発ったあと、豊臣方が切支丹を率いて小田原城を奪う計画がある」
という噂が実しやかに流れたため、家康は出陣前に小田原城へ行き、本丸以外の櫓や城門などを壊すハメになった。
噂の真偽はともかく、それくらい豊臣家の下に大勢の切支丹が集まり、警戒されていたようだ。


※3 真田丸について

大坂城の正門に築かれていた出城・真田丸(通称)は、古くからある戦術で、馬出・櫓門など様々な呼び方を
されており、真田領の防衛戦でも用いられていた記録がある。
城の弱点となる正門を、飛び道具による包囲殲滅の罠として利用するこの出城の戦術は、大筒などの対城兵器が
発達するまで、正面から崩すのは不可能とされていた程の堅陣だった。

秀吉が大坂城の増築をした際、命を受けた官兵衛たちはわざと大坂城の正門の守りを薄く設計したという。
巨大かつ堅牢すぎる城で一箇所だけ緩いところがあれば、そこを攻めたくなるのが人の心理であり、
守る側も狙われていると分かれば守りやすい。
無論徳川方は真田丸だけ攻めていた訳ではなかったが、重視したのはやはり正門であった。

ところが、どういう訳か徳川方は冬の陣で最初に真田丸を大筒などで集中攻撃し、破壊しようとしなかった。
「家康は城攻めが下手」は俗説とも言われているが、案外本当のことかも知れない。
もっとも家臣はおろか自分の子たちにまで、大義のために冷徹な扱いを通した家康のこと、泰平を乱す武士自体を
を減らすため、幕府が反感を抱かれない程度にわざと味方の犠牲を出させた、という見方もできなくはないが・・


※4 ワシのメンツが第一

江戸時代では徳川家の政権簒奪を正当化するため、前政権の豊臣家(に関わる者)を批判なしに語る事が
禁じられていた。現代の隣国で前政権に触れるようなもの、と言えば分かりやすいかも知れない。

実際、大坂の陣を豊臣方視点で描いた講談を興行した者も罰せられており、かのUTAMAROなど秀吉と側室たちが
キャッキャウフフする場面の絵を描いただけで罰せられている。

が、明治時代になると今度は徳川政権が悪とされたため、先の講談も大手を振って興行できるようになり、
それまで禁忌だった事も手伝って、幸村の物語は新時代の象徴的に大ウケすることになる。


※5 幸村最後の策

幸村は夏の陣の最中に娘の阿梅を伊達政宗の片腕・片倉家に引き取らせ、更に戦後には次男の大八らを
片倉家へ送り込むよう家臣に手配していた。

無論これは主家たる伊達家へ事前の根回しなしではありえない。
冬の陣で善戦した幸村たちだが、次に戦があれば間違いなく豊臣方は敗れ、自分も生き残れない事は承知していた。
そこで幸村は未だ野心を捨てていない伊達政宗に目をつけ、伊達家が決起した際は自分の子孫が力になる、
といったような密約をしておいたものと思われる。

夏の陣で後藤又兵衛が伊達隊の横槍を受けて討たれた際、後続の幸村の部隊は遅れて駆けつけた上、
伊達隊は後藤隊に受けた被害が甚大という理由で、退却する幸村を追撃せず見送っており、
更にその日の夜には阿梅が片倉家に引き渡されている。

後藤又兵衛の孤立については、事前に又兵衛から幸村へ玉砕するから救援無用という書状があっただとか
幸村が霧で進軍が遅れたなど諸説あるが、いずれにせよ先の一連の流れにいくつかの作為が混じっているのは
確かだろう。

戦後、片倉家は幸村との約定を守って阿梅を嫁として迎え入れ、大八とその子孫を匿い、大坂の陣から
およそ100年後、大八の子孫を仙台真田家として再興させている。
ただしこの時は昌幸の兄弟の子孫を詐称しており、堂々と幸村の子孫を名乗れるようになったのは
明治に入ってからであった。


※6 武功派たちの落日

創作で「天下のご意見番」として有名な徳川家のある家臣は、著作の中で次のようなことを述べている。

「近頃江戸城で出世する者と言えば、(状況に聡く)主君を裏切り主君に弓を引く者、口先だけうまい者、
 そろばん勘定がうまい者、お世辞やウケ狙いがうまい者、何かあるとすぐ辞めてしまう者ばかり」

要は関ヶ原によって世が治まった後、北斗の拳のコウケツのような奴ばかりが出世し、幅を利かせるように
なってしまったのだ。
そしてこれらの逆の生き方をする者、つまり世渡りの下手な腕に覚えのある荒武者は悉く遠ざけられ、
出世レースで置いていかれ、家中で立場をなくし、追い出されるように辞める者が少なくなかった。

後藤又兵衛をはじめ、名の知れた武功派の浪人達が豊臣方の呼びかけに応じたのは、このような事情もあった
と思われる。




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  • 最終更新:2017-09-24 21:57:34

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